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嗚呼、いのち!/名言作家養成塾 

ブロック A
 筆者【拾壱】は、拙著「合言葉たちの本」の84頁に収録されている一句を通じて、命に「罪」はなく…鼓動(こどう)や心音脈拍に耳を澄まし、自分が死にたいと感じたときさえも健気(けなげ)に生きようとする(ある意味で擬人化された)命を大切にしてみては?…というようなことを述べました。また、当サイトでも公開されているSN-005「罪を憎み…命を憎まず」の句においても、代償のきかない命を奪う権利は何人(なんぴと)にも、また如何(いか)なる機構にも付与すべきでないと申し上げました。

 そして、「殺すこと」を「権利」として正当化することの異常性と、それによって生じるかもしれない弊害死刑制度は見落としている(見過ごしている)のではないか…と。もし仮に死刑が有り得るとするなら、加害者がどんなに残虐(ざんぎゃく)な犯人であろうが、求刑した被害者(原告側)も命を奪うことの「罪(責)」に対する何らかの「罰」(*形式的・儀式的なもの)を甘んじて引き受けるべきではないでしょうか。

 どうして、何の落ち度もない被害者(または遺族)が残虐な犯人の死刑執行に際して、(内容の軽重を問わず)罰を受けねばならないのか…。筆者【拾壱】も我ながら馬鹿馬鹿しい妄言を吐いているとは思いますが、もしもゲストの皆様が「命を大切にしよう」と本気で考えていらっしゃるのであれば、この種の提案を程度の差こそあれ…悔しい(*口火を切った本人でさえ断腸の思い!)ながらも全般的に受け入れねばなりません。それは同時に、そこまでしても加害者を死刑に処して欲しいという毅然(きぜん)とした意思の表明にもなり得ることでしょう。

 一方で命を大切に…なんて言っておきながら、他方で残虐な犯人は例外だから単に「殺してしまえ!」…というのでは、筋(すじ)が通りません。命を奪うということは、どんな場合であっても…仮に百歩譲っても、決して「善いこと」には変転しないのです。正当防衛であろうが、人を殺してしまったのなら無罪放免(ほうめん)ではなく情状酌量(しゃくりょう)で減刑処分という程度にしなければ、「倫理」が死んでしまいます。

 さて、筆者【拾壱】はなぜ、これほどまでに「命」を特別扱いするのでしょうか? まるで、生命中心主義や命原理主義の信者ではないかと訝(いぶか)られても仕方ないほどに…。しかし、SN-005の句の解説&補足コーナーでも申し上げている通り、当方にとって命は「超越項」なのであって、絶対項では有り得ません。つまり、生きていくためには人間に限らず他の生き物の命を奪う(頂く)ことが不可欠であるという事実から、決して目を背(そむ)けたりしない…というスタンスです。

 例えば、筆者【拾壱】は日本という経済大国で、どちらかというと暖衣飽食(だんいほうしょく)な毎日を送っていると思いますが、それらの食糧の中には、発展途上国の労働者の皆様が食うや食わずの生活の中で生産したもの…言ってみれば間接的な搾取(さくしゅ)のような格好で享受(きょうじゅ)しているものも含まれていることでしょう。そして、我々は余った食糧を平気な顔で捨てている。

 要するに何が言いたいかというと、大切なのは何があっても「殺すべからず」という不可能な要請ではなく、命を命らしく扱って、たとえ殺すにしても(語弊があるかもしれませんが)きちんと仁義を果たして丁寧に殺せということです。それは、殺された命で作られる食べ物を粗末(そまつ)にするな…ということにも通じています。

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ブロック B
 ところで、超越項とは何のことでしょうか。簡単に申し上げれば「そのものを、そのものたらしめているところのもの」であり、すなわち(この文脈においては)生き物にとっての「命」です。世間では、よく「人は皆平等だ」というような表現が真(まこと)しやかに多用されていますが…法の下ではなく、やがて死に逝く「命の前において」なら、それは混じり気のない真実だと思います。どんなに金持ちで栄華(えいが)を誇るような人物も生者必滅(しょうじゃひつめつ)や盛者必衰(じょうしゃひっすい)の(ことわり)を持ち出すまでもなく、いつかは陰りが見え始め、やがて死んでしまうのですから。

 厳密に言えば、筆者【拾壱】が思うに…命は予(あらかじ)め「大切なもの」というわけではないと思います。某解剖学者は、その道の専門家らしく、命の「復元不可能性」(殺したら元に戻せない)を捉(とら)えて命を大切にしなければならないと説きました(*確かに現代の科学や医学では、小さな細菌類でさえ「無」から生命を誕生させることはできない)…が、それは倫理とは呼べません。命の大切さを「技術的な問題」に還元してしまうのは、余りにも危険です。

 ならば、命は「大切なもの」ではなく「大切にすべきもの」であると説く根拠は何なのか。それは、命というものが最後(最期?)の「切り札」だから…。要するに命を軽視すると、その周囲を取り巻く「全て」のものが軽々(かるがる)しい存在になってしまうのです。例えば、普段から何気なく使っている「必死」とか「懸命」とか「使命」といった言葉も、命を軽んじるのであれば有名無実化し、「決死の覚悟」を伝えることはできなくなるでしょう。

 そう、我々は「裸一貫」でこの世に生を享(う)けたのであり、懸けられる(賭けられる)ものは「命」しか持ち合わせていないのです。金品などは「所有物」であって、天与の「所在物」より次元の低いものでしかありません。すわなち、「有」とは「在」の下に属するものでしかなく、まさに「命(在)」あっての物種(有)と言えましょう。

 命を大切にしないものは、何も大切にしない…というより何も大切に「できない」のです。そして、命は自分のものであるはずなのに、自分の自由にならないような違和感を覚えるのは、所在物の命でさえも「借り物」であるがゆえに、絶対的な所有権と可処分権を持つことができないからでしょう。

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ブロック C
 我々は有史以来、命のことを「心臓」とは呼んできませんでした…。そこには、(復元不可能性だけに帰着集約されない)医学や生理学の常識を超えた命の神秘というか、バイタリティー(生命力)に対する畏敬(いけい)の念が込められているのだと思います。事実、奇跡の生還九死に一生といったドラマティックな「命の物語」を目撃なさった方も多いはず。

 筆者【拾壱】は無宗教者ですが、命(とりわけ人命)に関しては世界宗教的な地位(?)を与えてもよいと思い込んでいます。「神」という絶対項は実体がないゆえに、人それぞれの信念偶像的なもの)に従って別個の団体や組織を形成するしかありませんが、超越項である「命」は皆が一様に持っているものですし、神秘性についても申し分(ぶん)ないので、その思想信条分け隔(へだ)てなく普遍的に共有できるのではないかと…。

 近代化が進んだ「神なき時代」には、何でもありの無秩序を避けるべく象徴的な統一原理(倫理)が不可欠となりましょう。これも一つの「幻想」と言われてしまえば二の句を継げませんが、「価値観」とは極論すれば全て幻想にすぎないのですから、それならば全人類が共有可能で死守する価値のある幻想をこそ打ち立てるべきではないでしょうか。

 もちろん、命といえども利害が衝突したときなど…調停役としての「第三者的地位(機能)」を逸脱して、絶対項の如く振る舞うのは危険です。流動性のない「絶対(神格)」の常駐(じょうちゅう)が腐敗を招き、狂信齎(もたら)すことは、既に歴史が証明しています。大事なのは、本来的に命が大切かどうか(の証明)よりも、命は(人間の力強い意志で)大切にすべきものであり、そうでなければ他の何物も大切にはできない…大切という概念が成立または通用しない…というコンセンサスの形成ではないかと思います。

 「存在に根拠がないのは、存在そのものが根拠だから。」…これは、確か実存主義だったでしょうか? 勉強不足の筆者【拾壱】の記憶が漠(ばく)としていて申し訳ありませんが、この文脈においてなら「死んだら御仕舞い」というセリフも素直に首肯(しゅこう)できるような気がします。最後に、当コラムを読み終えたゲストの皆様が文字通り「死力」を尽くし、あるいは「命懸け」で生きているかどうか自問自答して頂けたら幸いです。【完】

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