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メタ・モラル・ハザード/名言作家養成塾 

ブロック A
 筆者【拾壱】は、旧サイト・合言葉たちの森の「徳度診断Q&A」というコーナーにおいて、道徳を利害得失や損得勘定とは次元の異なる新しい価値観を提供するものに「仕立て」あげようとしましたが、その正当性を主張しようとした途端、「美しい行為は性淘汰に有利かも…」とか「欲望のブレーキ役である」とか「自己を客観視する契機になりうる」など、結局は自分の得になりそうな合理的道徳論へと回収されてしまいました。期すべき誉(ほま)れであるはずの「美しさ」でさえ単なる第二次効用にすぎないと言われてしまえば、忽(たちま)ち求心力を失ってしまうことでしょう。

 かといって、先に教条主義的 かつ天使主義的であると喝破(かっぱ)した定言命法は、(地獄へ落ちる?)覚悟さえあれば本質的には何をしてもよいくらいの自由を手にした「近代的な個人」へ馴染(なじ)みそうにありません。それは、個人の判断力に対する不信感の表明となり、硬直的な規範を守るだけの受動態奴隷道徳)へミスリードしかねないと言えます。

 では一体、内省(ないせい)や自己省察を欠いたイデオローグを養成するだけの原理主義的な唯徳(ゆいとく)論…すなわち狂信的な律法主義や、合理的個人を想定した上で効用の最大化をパレート最適(薄められたジュース?)に求め、ゲーム理論に終始する条件闘争のような仮言命法をも回避した道徳とは何なのでしょうか。

 人間の限定合理性(打算能力の限界)に対する保険道徳? 契約社会に準じた秩序維持の公衆道徳? 処世術やイメージ戦略としての美醜道徳? 茫然(ぼうぜん)自失しないよう不安定な自己の存立と自尊心を懸(か)けて、対他存在としての意識やアイデンティティーを死守するための超越論的な精神道徳? …何だかどれも目的合理性還元されてしまいそうで判然としません。

 そもそも筆者【拾壱】は、「小さな親切」や「承認欲求の地平」や「人生3割の徳」など、比較的ソフトな「ドートク」を説いてきたわけですが、それはまずもって道徳そのものが道徳的(謙虚)でなければならないと思ったからです。他者を本位とする献身や愛に基づいた行為…言うなればハードな道徳を強要することは、何人(なんぴと)たりともできません。

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ブロック B
 他律的な強制力は、天動説的自己中心主義や夜郎自大(やろうじだい)的ミーイズム(俺様主義)に依拠し、その危害が自己目的化したような極悪(愉快犯など)に対して法律が執行または発動すべきものであって、自律の倫理が勇み足をするべき管轄(かんかつ)ではないのです。そのような越権行為が、反動形成(?)として人間を原子化(原子扱い)する倫理工学を生み出し、ロゴス通りの翻訳を拒(こば)めないような窮地へ道徳を追い込んでしまったのではないでしょうか。

 心身二元論ならぬ「徳得二元論」も、反則事例と新理論(新解釈)のイタチごっこを繰り返す「究極の選択」問題も、語用論系譜(けいふ)学や発生論の迷宮で迷子になって『自己言及のパラドックス』に陥(おちい)ってしまうメタ倫理学も、全てはその派生物ではないかと思われます。

 つまり、慣性の法則に従うが如く盲目的に道徳を墨守(ぼくしゅ)させ続けることは、「行き着く先はエゴイズム」式に当為の正体や道徳の欺瞞(ぎまん)性を暴き散らかした後で、別の文化的拘束力を新築するといった愚(ぐ)を再生産するだけなのです。そこには、利己利他かの二者択一しかなく、自己利益を道徳的に追求するといった折衷(せっちゅう)案が入り込む隙間さえありません。

 となれば、「個々が道徳的であるべき理由など一切ない!」と言わんばかりに、「強制力」や「拘束力」を道徳の内部から意図的に摘出(てきしゅつ)するしか道はなさそうです。守りたい奴だけ守れば…(いな)、「守る」などというサブルールみたいな受け身の発想ではなく「美しく」生きたい奴だけ創造的に斯(か)く生きろというほかありません。

 それは、人間の本質の完成態(絶対精神?)としての美徳のように大それたものを保証したりせず、ただただ己の心象(しんしょう)風景をもとに共感原理と他者感覚を研(と)ぎ澄(す)まして道徳性(志向)の赴(おもむ)くまま軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)に生きるだけのことです。

 優雅(ゆうが)に!自発的に!情動的に!臨機応変に!切迫性と迫真性をもって!…そう、やはり道徳は 『生き方のアート(芸術)』 なのだと改めて思いました。それは、通じないかもしれない。失敗するかもしれない。だけど、そこに愛ある知慮窺(うかが)えたなら「呼応可能性」は生き続けることでしょう。

 共通性のないところに差異性もないのなら、思いやりの基準の違いは「誤差の範囲内」であり「大同小異」であり「近似値」程度問題にすぎないと信じてみるのも悪くないと思います。他人の痛みが分からない(分かろうとしないような)人は、喜びも等しく共有できない…などというと再び合理的道徳論へと退行してしまうかもしれませんが、そもそも関係性を離れた純粋倫理なんて有り得ません。

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ブロック C
 自他錯誤行為といわれようが、公私混同(→混在!)といわれようが何ものかにコミットし、個人発の自然感情にも似た倫理の灯火(ともしび)を大切にして「美しい生き様に共感し、共鳴して、共振する」ことを筆者【拾壱】は少し強めに勧奨(かんしょう)したいです。周囲の支えに無頓着(むとんちゃく)で無神経なだけの独我嘯(うそぶ)き、「私は私の私による私のための人生を生きます!」と高らかに宣言することの虚しさを想えば、部分的な自己否定(超克)によって「無我」の境地へ近づく可能性を夢想するロマンティシズムの方が幾分か上等ではないでしょうか。

 事前に躊躇(ちゅうちょ)してみたり、事後に後悔してみたり、手段が利己的であっても「犠牲は付き物(必要悪)」と開き直らず手法だけでも利他的であろうと努めてみたり(*実際、手段を乱暴に手段扱いすることの減価償却費は高い)、目的ではなく結果的な副産物として「得」を求めてみたり… と、倫理のバリエーションは無限です。この事実は、感情移入できるモラル・センス淵源(えんげん)を宇宙や大自然といった理神論的な(?)サムシング・グレート(偉大なる何か)に求めたことと無縁ではないかもしれません。

 もちろん、コバルトブルーの空やエメラルドグリーンの海を眺めても何も感じないというような人に対しては無力かもしれませんが…定型化せず、対象化され得ず、体系化しきらず、美しいものを美化する過剰包装を必要とせず、否定しがたく其処彼処(そこかしこ)に湛(たた)えている。それらと接したとき、無知の智というべきか不如意(ふにょい)ゆえの謙虚というべきか、説教的言辞(げんじ)ではない道徳心が湧き上がってくるのを感じます。

 それこそが、神話や詭弁(きべん)ではなく燦然(さんぜん)たる哲理の、あるいは揺れる心で守り育(はぐく)みたくなるような規範(暗黙知)の原動力なのです。皆さんも、クリエイティブでアーティスティックでハートウォーミングな道徳を積極的に体現(芸術化)してみませんか?【完】

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H・N :拾壱(じゅういち)
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