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女性の女性性/名言作家養成塾 

ブロック A
 フランスの実存主義哲学者ボーヴォワールは、「女は女として生まれるのではない。女になるのだ。」と言って女性の連帯や社会的地位の向上、女権(じょけん)の拡大などを訴えジェンダーフリーの理論的支柱となりましたが、それらはウーマン・リブフェミニズムといった女性解放運動を経(へ)た後、次第にエスカレートして図らずも性差(差の別)」と「性別(区の別)」を混同したり、一部の逆差別(女性優遇)という新たな問題を引き起こしたのです。

 確かに、母性良妻賢母といった勝手な性的役割分業神話的イメージを押し付ける家父長制男尊女卑(だんそんじょひ)の蔓延(まんえん)する社会には、男性にとってさえ不都合(不利益)ではないかと思われるくらいの根深い不合理がありましたが、この問題を資本家(男=支配者)VS労働者(女=被支配者)のような階級闘争の視点で社会政策だけに矮小(わいしょう)化してしまってよいのでしょうか。差別と逆差別の水掛け論押し問答から脱却するためには、本質的かつ実用的な議論が欠かせません。

 男女の問題というのは、要するに男性や女性の定義や線引きではなく、そうした価値観念の完全な一致を一旦(いったん)潔(いさぎよ)く諦めて、相互承認と共通理解の創出という…思想から実践へのシフトチェンジ、言うなれば応用または「臨床哲学」のレベルにまで考えを致さなければならないと思うのです。ここは一つ、男らしさとは何か、女らしさとは何かと果てしなく追究するのは止(や)めにして、「男らしい女」と「女らしい男」の存在を快(こころよ)く容認できるくらいの寛容さを持った社会を目指そうではありませんか。

 もちろん、そのためには例えば女性を「性的対象」としか見ないような男性の「意識改革」が不可欠となりますが、そんな下卑(げび)た野郎がいるとしたら、とりあえず「精神的童貞(どうてい)」であると指弾して吐き捨ててしまいましょう。あるいは、「男に負けたくない」という意味不明な発想から、「力任せ=男勝り」と勘違いするようなタイプの女性は、単にホルモン・バランスを欠いた情緒不安定な「女崩れ」にすぎないと皮肉ってやりましょう。そのような女性は、単に刺々(とげとげ)しいだけで、男の粗野だったり下品だったりする部分だけを真似ていれば男に勝てる(匹敵する)という具合に、何か履(は)き違えているのかもしれません。

 筆者【拾壱】に言わせれば、上述の精神的童貞もヒステリックな女崩れも、共に女性性や男性性との邂逅(かいこう)という好機を逸(いっ)していると思います。例えば、女性性の魅力について申し上げるとすれば、その護身術的な柔軟さ…余計な争いを避ける「柔(やわ)らの精神」には特筆すべきものがありますし、これは飽(あ)くまで希望的観測ですが、仮に女性が大統領や首相になるような「母系社会」が世界的に増えた場合、(色々と課題はあるとしても)大規模な戦争や紛争に限っていえば目に見えて減少するような気がしてなりません。とりわけ、子どもを出産した経験のある女性リーダーの場合、一般の男性よりも「命の大切さ」を身体髪膚(はっぷ)で実感しているはずなので…。

≫≫ 以下のブロック(↓)に続く


ブロック B
 よって、女性に腕力がないのは不利なことではなく、むしろ然程(さほど)必要ないからであり、そんなものなどなくとも対立や衝突を上手に処理するだけの柔軟性や器量潜在的に備わっている…とは考えられないでしょうか。「女は皆、生まれながらにして女優である」とは善く言ったものですが、男が狼や狸(たぬき)なら、女は豹(ひょう)や狐(きつね)となって立ち回り、柔(じゅう)よく剛(ごう)を制して、男どもを手玉に取ればよいのです。

 あるいは、少し話が脱線しますけれど…そのような観点から女性の化粧(make up)について論ずるとすれば、(りん)としたナチュラルメイクは異性を(とりこ)にするためだけでなく、さらに同性(ライバル)の存在を強く意識した(非暴力的)戦闘モードへの「変身」とも解釈できなくありません。もちろん、純粋に綺麗になりたいという可憐(かれん)な乙女心発露(はつろ)としてのメイクも、個人的には好感を持てますが…。

 このように、(主観混じりの)一般論を列挙するだけでも、性差・性別の文化性や同性内での多様性は、本来的に狭義の性的役割分業を超えて社会を「豊かにするためのもの」であることが分かるはずです。よって、我々の意識から(固定)観念を完全に排除するすることも、男女の質的な違いを無視して中性化することも実際問題として不可能だとすれば、残された道は互いの特性(可能性)を総合的に見極めた上で、女らしい女(男らしい男)になるか男らしい女(女らしい男)になるかの決断は個人に委(ゆだ)ね、その選択を尊重するしかありません。

 これらを(いたずら)に対立・対決させることは無益であるばかりか、損失(有害)でさえあります。男だからとか女だからとかではなく、仮に血液型別性格診断のようなレベルで先入観や偏見が含まれた定義をするとしても…決して思想または仮説の悪用や乱用はせず、「異質」なものを尊(たっと)び慈(いつく)しむことで味方につけてしまおうではありませんか。これぞ、言うは易(やす)しポスト・フェニミズム?【完】

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