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SN-005/名言作家養成塾 

sn-005gas

プレーン・テキスト

≫≫ 解説 ≪≪

 「罪を憎んで人を憎まず」という日本に伝わる故事焼き直した作品です。同じ人殺しでも殺人は凶悪な「罪」で死刑は正当な「罰」だなんて、法律は矛盾していないの?…と思う一方で、人の命を奪ったのだから自分の命をもって償(つぐな)うべきという同害報復の論理もわからなくありません。

 ですが、遺族(被害者家族)各位が取り乱しているときこそ、法律家の人たちは感情的にならず、加害者の生命と人格を方法的に弁別すべきであり、冷静に粛々(しゅくしゅく)と事を運ばねばならないような気がします。

 厳しく更生を強(し)いる懲(ちょう)罰とは異なり、代償のきかない命を奪うだけの天罰(死刑)は、もしかすると社会的または法的制裁範疇(はんちゅう)を逸脱(いつだつ)した越権行為かもしれません。

≫≫ 補足A ≪≪

 誤解しないで頂きたいのですが、筆者【拾壱】は積極的な「死刑廃止論者」ではありません。かといって、中立の隠れ蓑(みの)に身を潜(ひそ)めるわけでもなく、ただ本当に心から命に関する問題は「永遠のテーマ」だと申し上げたいのです。

 「被告人を死刑に処した後で冤罪(えんざい)だと判明したら取り返しがつかない」という論調の優位性を筆者【拾壱】は疑問視していますが、加害者の量刑にばかり気を取られて被害関係者の社会的・精神的なサポートが疎(おろそ)かになっていることは厳然たる事実です(2006年時点)。

 そのことが、遺族や被害者たちを現時点の所在なき怒りや憎しみといった衝動的な「処罰感情」にのみ駆り立てさせているとしたら…。専門家のケアによって、少しでも心のゆとりが生まれ、別の感情や思考の入り込む余地ができたなら、死刑が故人の無念を晴らすとか、全ての問題を解決する万能薬であるかのような迷信や錯覚から距離を置けるかもしれません。

 死刑に限らず「厳罰化」の時流を受けて感じるのは、仮に自分や身内が何らかの理由で犯罪者になってしまったときも同様に当の罰や刑に処されるというのに、人々がその可能性について真剣に考えていないのではないか…ということです。

 犯罪心理学では、「誰もが犯罪者になりうる」ことを想定した研究がなされています。今現在は被害者でも、翌日には別件で加害者になっているかもしれません。そのときになって、刑が重すぎるなどと不服を申し立てても遅いのです。

 死刑制度に賛成するということは、自分や恋人・家族についても例外はないということを忘れないでください。殺人犯でさえ、(どんなに計画的でも)いざ実行へ移す際には「勢い」を要する情動的な行為であるのに…「生殺与奪」を権利として付託することによって司法の安直な肥大化を許せば、自分で自分の首を絞(し)める日が来てもおかしくないのです。

 そして、法的な厳罰をチラつかせることでしか悪を抑止できなくなったとき、「道徳の退化」は止めどなく進行するでしょう。

 無論、筆者【拾壱】だって自分の愛する人が理不尽で無残な殺され方をしたら、加害者を殺してやりたいと思うに決まっています。しかし、そのときは自分ではコントロールできないであろう暴走的な感情を、できれば誰かに宥(なだ)めてもらいたいです。

 本当の意味で被害者感情に配慮するというのは、そういう精神に寄り添うものであるべきではないでしょうか。怒りや憎しみを煽り立てるのではなく、事件を冷静かつ客観的に見つめてくれる第三者の支えや助言によって、死刑も私刑も回避する道を模索することこそ、関係性の中を共に生きる人間の知恵だと思います。

 筆者【拾壱】は法律に暗いので、死刑の代替案について云々(うんぬん)するのは不用意かもしれませんが、凶悪犯を指して「極刑でも物足りない」という被害者や遺族の至言足がかりにすると、事の本質が見えてくるような気がします。

 要するに、裏を返せば死刑は何の問題も解決しておらず、単なる「仇(あだ)討ち」の代行にしかなっていないということです。遺族にとって何より苦痛なのは何事もなかったかのように事件が風化していくことであるはずなのに、これにて一件落着的な幕引きを死刑によって図(はか)るのは「事なかれ主義」ではないでしょうか。

 もちろん、一方で被害関係者がいつまでも事件を引きずりたくないというアンビヴァレント(両価的)な感情を抱いていることも確かでしょうが、被害者(故人)の犠牲を社会的に何か意味あるものとしたいのなら、その限りにおいて死刑は有効な手段とは思えません。

 それでは、一体どうすればよいのか。恣意(しい)的で誠に申し訳ありませんが、不勉強なうえに現場(修羅場)を全く知らない筆者【拾壱】には、釈放のない終身刑に幾つかのオプション(選択肢)を用意するくらいの妥協案(絵空事?)しか思いつかないので、以下に併記させて頂きます。

【1】 終身刑+鉄拳制裁:刑務官が立ち会って、被害関係代表者が加害者を人権と命に特段別状がない加減(グローブ着用等)で「殴る権利」を与えるもの。

 弁護士や検察官といった第三者が当事者たちの間に仲立ちして係争し、問題を解決するという法治システムは合理的ですが、刑が確定した後でさえ被害者側が加害者に面と向かって文句の一つも言えない事態は異常です(2006年時点)。何というか、無機的かつ事務的でリアリティーがないように感じます。

 もちろん、被害関係者が希望しないのなら話は別ですが、「とにかく一発だけでも殴らせろ!」というのが人情だと思いますし、やり場のない鬱憤(うっぷん)を少しでも処理することで事件の整理をする心構えができるのなら、条件付き体罰は正当(合法?)なのではないでしょうか。

 加害者にとっても、自分の犯した罪の重大さを改めて肌身で実感でき、終身刑に服する哲学的な意義みたいなものを見出せるかもしれません。

【2】 終身刑+終生反省文:被害関係者にとって加害者が獄中であろうと事件のことを忘れて何食わぬ顔で生活していたら、さぞかし耐えがたいでしょう。

 被害関係者のもとに手紙を送付するかどうかは別として、事件のあった日(命日など)に反省文を書かせることは否応(いやおう)無く被害者の『顔』を受刑者の脳裏に蘇(よみがえら)せます(…ある意味、生き地獄?)。

 また、文章をインターネットなどで公開して受刑者のもとに反響が届けば、遅ればせながら改悛(かいしゅん)の情を促す一助となるかもしれません。作者は、終身刑が受刑者を社会から完全に断絶して幽閉するだけのものにするべきではないと思っています。

 一般の人々が反省文を閲覧することで犯罪について考えたり、十字架を背負った人間の生き様を学んだりすることは(不謹慎な表現かもしれませんが)貴重な体験ではないでしょうか。

 以上の提案は、法曹(ほうそう)関係者の方々からすれば児戯(じぎ)に等しい暴論に映ることでしょうし、もしかしたら学術的にもっと洗練された形で研究されていたり、諸外国の一部で似たようなことが試験的に実施されていたりするかもしれません。

 しかし、筆者【拾壱】は法学者でも法学徒でもないので刑の実効性や実現可能性より「趣旨」に重点を置きました。要するに、「刑罰」とは何かという根本的な問題を再考してみたかったのです。果たして、司直のメスは受刑者の首を斬るための道具なのか…と。

 逆説的ではありますが、仮に遺族の会や被害者の会の皆様の察するに余りある苦衷(くちゅう)や想いを汲(く)み取れず、どうにも気分を害することが避けられないとしたら、それは最後まで人道や命の原理原則という(とりで)を何とかして守り抜こうとするようなときでしかないような気がします。

 死刑の正当化が、期せずして「人を殺してもよい理由」を用意することとなり、その歪(ゆが)みが延(ひ)いては何らかの形で間接的に第二の被害者を生み出す可能性がないとも言い切れません。

 もしも、命を超法規的な対象として認めるのなら、無期懲役や終身刑の延長線上に何の留保もなく「制度的な」死刑を定置することは極めて危険です。

 今為すべきことは、死刑を推進するのか廃止するのかといった二項対立の非建設的なイデオロギー闘争ではなく、命という超越項(※注 : 絶対項ではありません)について皆で真剣に議論することではないでしょうか。

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